わたしの「正解」あなたの「正解」(心の境界線)
わたしたちはひとりひとりみんな
顔も違えば体質も違います。
何を好きと感じるか、
何に幸せを感じ、
何を大事にして生きていきたいか
病気に対する考えや
その人に合う治療法や健康法も
おそらくみんな違います。
それはその人をその人たらしめる
特徴や「らしさ」のひとつ。
それぞれに「その人らしさ」があるということは
自分にとっての「生きかたの正解や選択」が
誰かにとっても「正解」だとは
限らないのですよね。
それは家族や身近な人であっても、
同じことです。
身近な大事な人だからこそ「正しい」ことを伝えたい、
という思いがわくこともあるでしょう。
思いを表明するのはもちろん自由。
けれど、
それをどう受け取るかは相手の自由です。
無理にそこに侵入しようとしたくなったり
そのことで相手とトラブルになるなら
「心の境界線」を振り返るのも大切。
(わたしも過去、夫とお互いの境界線を踏み越え合いましたよ~)
立場が逆でも同じことですね。
誰かに「とある正解」を示されて
境界線を越えて介入され
嫌な気分になるのなら
「NO」と
表明する自由があるはずです。
さて、
もし
「そこでNOといえない」
「自分の選択に自信がもてない」
「あれでよかったのか…と後悔しちゃう」
「誰かに正解を教えてもらわないと不安」
なんていう思いがあるなら
もしかしたら
自分より誰か
(親、配偶者、権威、社会など)の意見を
尊重する癖があるのかもしれません。
その癖ができた経緯には
たとえば
自分の感覚や意見を否定され続けたり
それを表明できない時期を経験したりして
自分の意見や感覚を表明すると
怒られる、
嫌われる、
孤立する、
生きていけない、・・・
そんな恐怖や嫌な思いを
感じたことがあったのかもしれません。
だから、
同じようなシチュエーションがあると
「また同じことが起きるかも」と
恐れが湧き
「安全・安心」を得たいために
誰かの「正解」を選んだりする。
などなどという事情があるのかもしれません。
その癖やパターンは
ある時期、生きるために必要なものだったので
それを恥じたり自責することはありません。
でももし
もう不要と思うなら、
今その場からでも、
別の癖にかえることが可能です。
「自分にとっての正解を、自信をもって選ぶ癖」
それは、
心の筋トレによってつくれる癖です。
たとえば今、
もし
何かを飲もうとしていたら。
お金も、
誰かの好みも
常識も、
正しい健康法も、
オール無視でいいなら
何が飲みたい?
ホットがいい?アイスがいい?
量はたっぷり?ひと口でいい?
甘いもの?さっぱりしたもの?
なんて自分に聴いて
心身にぴったり当てはまるものを探すのが
「心の筋トレ」のひとつ。
その答えは、
他の誰にも当てられません。
今あなたが何を飲みたいのか、
どれくらい喉が渇いているかなんて
誰にも分らないのです。
自分の正解は、
自分に意識を向けて
自分が感じるしかないんですね。
そうして見つけた「正解」を自分に提供して
「ああ、美味しい、うれしい、ほっとする」と
心地よさを感じたりできれば
求めてたものと合ってた!
自分の感覚や選択がOKだった!と
肯定できますね。
自分の正解をキャッチし提供して
自分を幸せにさせてあげられる自分、
自分の欲求に対してちゃんとレスポンスができる自分を
信頼できます。
仮にできないときがあっても、
少なくとも無視はしないで
残念な気持ちを受け止め
「今はできないけど、どうしたい?」と
聴くことはできます。
これって、
当然、飲み物だけの話ではありませんね。
日常やっていること
対人関係や買い物や家事や仕事
ひいては人生の選択にも応用できます。
「飲み物を選ぶ」なんて
毎日できるし
失敗したってすぐ再チャレンジできること。
そんなことでコツコツと
「自分らしさ」「自分軸」を育んでいく力が
やがてもう少し大きな
「人生の選択」の判断の力にもなるんですね。
そんな風に自分らしさを肯定することは
「自分と人との心の境界線」を
つかむヒントになります。
自分が大事に尊重して見つけた「正解」があるなら
他の誰かの人生の「正解」も、
自分と同じように大事なものなのだと
自然と尊重できるようになるかもしれないのです。
どうしても他人の正解を尊重できない、と
苦しい時は
もしかしたら、
心の底に不安や恐れがあるのかもしれません。
それは、
自分の選択や感覚、
自分(や世界)を信頼する力に対する
不安や恐れの可能性も。
(もちろん違う可能性もあります)
ともかくまずは、自分から。
「わたし正解、あなたも正解」
そんな世界は、
とっても豊かで自由ですよね。
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