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  • 執筆者の写真Aarteeni

「求めて傷つくならいっそ・・・」のこころ(防衛機制)

「手を伸ばして傷つくくらいなら、いっそ自分から関係を断ってしまえ

そうしたら自分は深く傷つかずに済むから」。

こんな心の動きって、意外とよくあるよなあと 

某ドラマを観ながら思いました。

(「カムカムエヴリバディ」、

朝ドラを初めてみました…ありがとうNHKオンデマンド!)

「本当は愛されたいけど(それが叶わなければ自分が傷つくから)逃げてしまう」

「本当は好きなんだけど(自分には相応しくないのがつらいから)ディスってしまう」

「本当はそれに手を伸ばしたいけど(もし手が届かなかったら悲しいから)欲しくないことにしてしまう」

心には、

自分を守ろうとする働きがあって、

こんな風な動きもそのひとつのパターンです。

渇望するほど求めているもの、

たとえば

とても愛してほしい存在

ずっとずっとほしいと思っていたもの

やりたいと願い続けていたことに

拒否されたり、

手が届かなかったら

心は痛手を負います。

手に入らないかもしれないという不安や恐怖、

手に入らない悲しみや怒り、

自分や他人や世界に対する失望、

望んだってどうせ叶わない…という不信感、

自分という存在への無価値感や無力感

恥ずかしい、情けない気持ち、

自己卑下の感覚、

手に入らないなら生きる意味もないというほどの絶望感・・・

そんな感情・感覚で

心がいっぱいになってしまうかもしれません。

その衝撃やエネルギーの大きさを

持ちこたえられないと心が判断したら

回避(逃げる・離れる等)したり

正当化(もともとそういう運命だったと思う等)したり

抑圧(感じないようにする・蓋をする等)したり…

といった具合に

心を守る訳なんです。

これを防衛機制と言ったりします。

もしかしたら、

心の成長途上の幼い頃のほうが

より強烈にその感情を感じ

より命がけで心を守るために

その仕組みを発動しやすいかもしれません。

その結果、

大人になってもその心の仕組みを

「癖」「パターン」として持ち続けたり 

何度もその癖を使っていくことで

「やっぱり私は愛されない人間だ」

「それに相応しくない人間だ」

なんていう人生脚本を創り

人生そのものを形成していく・・・

なんてこともあるかもしれません。

心を守るための働きなので、

それで今も本当に心が守られて、

幸せに暮らせるならそれでもいいんです。

絶望に打ちひしがれながら毎日暮らすのはつらいことですから。

命がけでつくった心の仕組みが

ダメだったわけでも、

恥ずかしいことでもありません。

それが一時自分を救ったのは確かなこと。

でも、それがもし

いま本当に求める幸せや

自由を妨げていて

「もうここから抜け出したい」

と感じるなら 

「そういうタイミング」かもしれません。

「そこに向かわせない不安や恐怖はどこからきているのか」

「そこにまつわる思いこみはなんなのか」

「本当はどうしたいのか」

などを知り、

心の痛みがあるなら解放し(これがとても大事!)、

本当に自分が感じたい幸せを感じながら

生きることも、可能なんですよね。  

心の痛みからうまれたいろんな信念、

「自分は愛されない存在だ」 

「幸せになる価値のない存在だ」

「役に立たないと存在できない」

「がんばって何かを勝ち得ないと認められない(生きていけない)」 

「愛した人は裏切るものだ」

「人はわたしを見捨てるはずだ」

「見捨てられるに値する自分なんだ」

「それらを、どうすることもできない無力な自分だ」

・・・・・

さあ、それは本当のことですか? 

今も、その信念を持ち続けて幸せですか。 

この先もそうして生きていきたいですか。 

そんなことが自分に問われているのかもしれませんね。  

自分の心の痛手に目を向けることは

自分に愛を向けること。

そうして自分の痛みが和らぐと、

相手の痛みも受け入れられたりします。

(ディスられたり、逃げられた側も、傷ついてるかもしれませんよね) 

自分や他人、

内側にも外側にも愛を向けられると

ますますよい循環がうまれ 

「やっぱり私は愛されている」

「幸せでいていいんだ」

なんていう前提や信念が強化され、

たとえ同じ出来事が起きても

違うパターンで対処ができる自分でいられて

ますます幸せを感じながら人生を創っていけるかもしれません。 

どんな自分で生きるも、自由なんですよね。


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