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執筆者の写真Aarteeni

しゃくりあげて号泣する自分が嫌だった(感情コントロールの秘訣)

いろんな方の子どもの頃のお話を聴いていると


ふとわたし自身の子どもの頃や


若い頃の感覚を


思いだすこともあったりします。




先日思いだしたのは


「ものすごい勢いの号泣」


の感覚。



それも子どもの頃のことじゃなく、


社会人になってからの、


しゃくりあげるほどの号泣!!




わたし、


20代くらいまで


仕事でなにかあったとき


職場のトイレであるいは家に帰ってから



息が苦しくなるくらい、


嗚咽をこらえるのに疲れるくらい、


号泣してたことがあるんですよねーーーー





そしてものすごーーーく、


そんな自分が嫌だった。






パワハラとかにあってた訳じゃあ、


全然ないんですよ!


職場には恵まれていい人たちに沢山出会いました。




だから、泣くきっかけは


本当に本当にささいなこと。



それが「理由」とも言えないくらい


うっかりミスをしたとか


ちょっと注意されたとか


そんなきっかけです。



 


そんなことで、なぜそこまで泣く?!




って感じですよね。




なんかもうねーーーー




よくわからなかった笑






自分でも情けなかったですよ、



泣く=弱い


みたいに感じてたので。


(これが母の価値観をそっくりトレースしたものだ


ということにも気がつかなかったし)





なんでこんな風にいつも泣いてしまうんだろ?



打たれ弱いのかなー


情けないなー


仕事って、つらいことあっても涙をぐっとこらえてするもんでしょ?



と内心思ってました。




トイレの個室で泣いてる時も


誰にも何にも言われてないのに



「泣いたら慰めてもらえると思ってるのか」


とか思われるんじゃないかな?


いやだー全然違う、慰め励まし、求めてないです!


誰も来ないでーー!!




ただただもう制御不能の涙マシーンのように


止められないだけなんです!! 


なんとかおさめるので時間をくださーい( ;∀;)





と、脳内でひとり自己弁護したりもしてた 笑。 





もうさすがに今はそんなことないですし


なんでその頃そんな風だったのかな、


と感じ直してみたら 




その理由は



悲しみ・絶望・自己否定みたいな気持ちが


もう溢れるほど「感情のコップ」に溜まっていたから。 




溢れるほどの感情エネルギーが


「しゃくりあげ苦しいほどの号泣」として


あらわれていたと思うんです。



(「感情のコップ」は


気持ちを収める心の器をイメージしたもの。


詳しくはこちら



簡単に書くとこんな感じ!(これ以上の技術がないw)





もちろん、そのほかにも



「仕事での失敗=人間失格」


と自分をバッサリ斬るくらい


外側から評価されることだけが存在価値で


自分の軸も自信もなかった


という理由もありますけど 



それだけでは説明がつかないほどの


激しいエネルギー


だったんですよね。


 




20代の頃は



子どもの頃のつらさなんか


「終わったこと」と思ってたので 


完全に、つらかった気持ちに


フタをしてたんです。




そして


感情の扱い方もまったくわからなかったので


「ネガティヴな感情は瞬殺」


または


「表面的な愚痴をこぼしまくる」


という傾向が大きかったため


(愚痴を聴いてくれた職場の人たちほんとありがとう…)




本音の感情のエネルギーが


もうコップ表面ギリギリまで


圧縮されてて


決壊寸前の状態だったと思うんです。




それこそ


横隔膜も制御不能、


みたいになるほど。




だから


ほんのささいなきっかけを利用して


子どもの頃から蓄積され続けた



悲しみ、絶望、無力感



などの感情エネルギーを


「号泣」の形をとって放出してたんですね。


つまり、過去の分まで「盛って」出してた。


 




ずっと圧縮されたエネルギーを


溢れないようにフタし続けるのは


苦しいことです。 



いつか、


どんな形であれ


出さないとキツかったんでしょうね。


不本意でしたけどね。





たまたま今回


「号泣」という形を思いだしたけど




同じように誰でも


なにかしら別のいろんな形で


「溜めてしまった感情エネルギー」を


出してしまうようなこと


よくあると思うんです。 




たとえば怒りであったら


身近な人に対して


イライラしたりキレたり


制圧したくなったり。



それが内に向かえば


いろんな形で


実際に自分の心や身体を傷つけてしまうこともあるかも。



または 


不安やさみしさ、恐怖


孤独感、無力感や罪悪感などを


埋めようとする気持ちが



なにかしらの依存やコントロールとしてあらわれたり。


なぜかいつも被害者の立場をとったり。



誰かをバッシングしたり


マウントをとったりすることで


渇望していた感覚を得たり。 




そういうのって、



わたしが


「号泣する自分ってすごく嫌」


「情けない」


「カッコ悪い」


「なんで自分はこうなの??」



と思っていたのと同じように 



できればあんまり見たくない



「嫌な自分の側面」



かもしれないですよね。 




でも、


もしかしたらその根もとには


抑圧された気持ちのエネルギーが


あるのかもしれない。 



そうだとしたら


「嫌な自分の側面」は


ただの表面的なあらわれなだけで


 


「この奥に抑圧された気持ちがあるよ」


と知らせてくれてるサイン


だともいえますよね。 




単なる表面のあらわれだけで


嫌っちゃうには


あまりにも自分本体が気の毒。 




わかってあげよう、


その下にある根もとの気持ちの部分も。


なぜ、


そういう「あらわれ」になっているのか


優しいまなざしで見てあげよう。




根もとの存在をわかってあげたら



まさに根がどっしりした


安定感安心感のある幹のように


自分の軸を立てられる 



その歩みをひとつ進められるかもしれませんね。



根もとの存在を知りたい方は


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