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  • 執筆者の写真Aarteeni

優しい平和主義さんの「自立」の痛み

自立と依存って、


概念やイメージがいろいろなのですが



今回の「自立」は


「自分で自分をOKと感じる、


他者の価値観に依らない、


自分軸を確立していく」等という


「精神的自立」ニュアンスで書いていきます。



前回は


「依存ゾーンを思うように過ごせなかった痛み」


でしたけど


「自立ゾーンに自由に行けない痛み」も


存在しますよね。





その理由はさまざまですが


たとえば。




子どもの頃



自分の思いを否定・無視・反対ばかりされた。



「正しいものはこれ」


「こうすべき、しないべき」と


言語・非言語で言われた。



あるいは気持ちを利用したコントロールが


よく行われていた。


(好き・かわいそう・申し訳ない等という自分の気持ちを


故意に利用されてのコントロール・支配。


相手が望んでいる言動を差し出さなければいけないような気がしたり


差し出した後にネガティブな感情が残ったりします。)



家の中や学校が、恐怖や不安で満ちて安全じゃなかった…



そんな理由で




自分は力のない、


そのままではいけない、間違った、


価値の軽い、


愛されない存在なんだな 



と漠然と思って(思わされて)しまい




「力や権威のある人・みんなが選ぶなにかの方が正解なんだ」



「自分が望む人生なんか、無理だよね」



「誰かに幸せにしてもらわなければいけない」



「周りの気配を察知するのが生きる術だ」



「この不安だらけの世の中では、生きるのつらい…」等と




不安や恐れで


気持ち的に立ちすくまざるをえなかった。




そんな痛みです。


非常につらいものがありますね。



こんな子ども時代を過ごされた方も、


結構たくさんいらっしゃいますよね。




それは、とても苦しく、


窮屈だったことだと思います。


でも、


自分にとっては日常すぎて、


これがあたりまえと思っていたかもしれません。






心や魂は、基本的に成長したい欲求があります。



自分という存在、命を


自分の魂のデザイン通りにのびのび生かしたい。


自由に、自分らしい心で、幸せを感じたい。



そういう自分の領域に侵入され


否定されたり、


コントロールされたり、


壊されたり、



あるいは


周りを察知することにエネルギーを使い果たして


自分の魂の成長にまで気力が残ってなかったとしたら。



自分という存在


(感覚や気持ち、


好みや望み、


容姿や才能、


価値観など)に


自信を持てなくなったり、



無価値感や無力感を感じたり



世界に対する絶望、


ここにいてはいけないんじゃないかという不安


どこへ向けてなのか最早わからない罪悪感などを



持ってしまうのも無理のない話ですよね。




「そんな中でも逆境をバネにできる人もいる」


「そうできない自分には努力や根性や勇気がたりないんだ」



自分を責める人もいるかもしれません。



でも


「きっと何を言ったって、どう行動したって無理」


「なんか言ったら今の10倍痛い目にあう」


「それなら身を護るほうが優先」と


感じたことはありませんか。



それは「学習性無力感」という言葉が存在するくらい


誰にでも起きる、心の現象です。



不安や恐怖を押し込めて


何度トライしてもダメだったら


次もきっとダメに違いない。



また落ち込み絶望する位なら


心や身体、命の安全のほうが優先



そんな風に感じてあたりまえなんですね。




あなた個人の


努力や勇気が足りないわけではなく


それだけの事情があったからです。




そんな事情のなか、



元々あるはずの自尊心を


つぶされかけそうになりながらも


耐え、抜け道を探り、自分で安全を確保しながら


ここまで生きのびてきた。



それは、生きる力のある証拠です。



ある意味、サバイバーですね。


ほんとうに、がんばった方、多いと思います。




ここまで命を見捨てずに


なんとかやってきただけでもすばらしいのですが


前回のしっかりさんと同じく


転機がやってくるときがあります。




もう耐えるのも、


遠慮するのも、


周りの気配伺うのも嫌だ!


自分の力を取り戻さなくては!



と思うような時。 




そんな時も、


やはり


自分の痛みをわかってあげるといいですよね。




屈辱で、悔しく、悲しかった、



とても怖かった、


無力感を感じて苦痛だった、



ひとりで我慢し、孤独で、さみしかった… 




そんな自分の気持ちを一つずつ認めると



ああ、


このわたしの気持ちは存在してよかったんだ、


わたしの存在自体も、そのままでいいんだ


本当は、自由に生きていいんだ



と思いだす心の余地ができるんですね。 




すると


自分の存在や感覚


感情や体験や考えへの信頼感・肯定感が増し



本来の優しさ、敏感さ、繊細さ


ピースフルな感性や


アーティスティックな側面が


もっと際立って



「わたしなんかこんな存在」


という思い込みを


「わたしって素敵」に


変えていくこともできる。



その素敵な自分で


素敵な人生を創っていこう、


だってそれに見合う自分なんだから、と



自分の人生への力を


取り戻すことだって可能なんですね。 





誰の心にも、


どちらの側面もあります。



自分は平和主義要素が多いかな、


という方にも自立の心が


しっかり面が多いかな、


という方にも依存の心が。 



接する相手によって、変わることもあります。



どちらにしても、


自分の痛みを癒すことで


自分と真逆に見える人のことも


自分と同じ痛みを持ってそうな人のことも


理解できるようになり


(もちろん、わかりたくなければそれもOK!)



その人たち、


パートナーや子どもや親などの


痛みも、


同じく懸命に生きてきたことも


愛や尊さも


わかるようになったりします。 




それはあなたの人生をもっと慈しむことでもあるかも。 



自分の心を見ていくことって


本当に、世界を豊かに広げていけるものだな、と


わたしは思います。


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