『もののけ姫』と「曇りなきまなこで見定める」ということ
しつこいようですが、ジブリ映画が好きです。
先日、『もののけ姫』が放送されていたので、何度目かもう数えていませんがまた観ました。
そういえばこの映画のキャッチフレーズは、「生きろ」なんですね。
今までは、自然と人間の共存とか、神や自然に抗おうとする人の愚かさとか、主にそういったものを感じながら観ていましたけど、今回はこの「生きろ」という言葉を頭の隅に置きながら観ていました。
そうするとまた視点や感じるものが変わってくるのが、ジブリの素晴らしいところだなあと思っています。
何回観ても、年を重ねるにつれ、新たな発見があるのが好きなんです。
この映画では生き死にをつかさどるシシ神様が登場します。
シシ神さまは、命、生死そのもの。人間が生かしてくれとか殺してくれとか、呪いのあざを癒してほしいとかいう人の希望願望などに全く関係なく、流転させます。
人が介入できる領域ではないところで存在している、まさに神さまです。
だからシシ神さまが生きろとおぼしめせば生きられるけれど、タタリ神になりそうだったオッコト主のようにふっと息を吹きかけられて亡くなる場合もあります。まさに神さまによって「生かされている」感じがします。
そして「生かされている」のはシシ神様によってだけではなく、周りの人の助けにもよっているのだという描写も多くあります。
たたら場の業病に苦しむ人々はエボシが仕事を与えることで社会的に生きているし、アシタカは最初の乙女たちをはじめ、あらゆるところで人を助けています。そのアシタカも、瀕死の状況に陥った際にはサンの看病によって生かされます。
そして、「どう生きるか」もあらゆるところで問われています。
サンがオッコト主の目になる、といったときには
育ての親であるモロが「あの若者と生きていく道もあるのだよ」と示したうえでサンの選択を尊重しています
(今までこういうシーンにあまり気が付けなかったけど、今回はこの母性にぐっときました)。
ラストではエボシも腕を失い生き方を見直し、
サンとアシタカは心を通わせますが生きる場所はそれぞれ自分らしいところを選んでいます。
なにより、このアシタカの旅自体が「どう生きるか」を問うものです。
タタリ神によって傷を負ったアシタカは、ヒイ様に
「運命はかえられない、ただ待つか自ら赴くかは決められる」
「曇りなき眼で物事を見定めるなら、呪いを断つ道がみつかるかもしれない」と言われ、村を離れ森に向かいます。
呪い。
アシタカの負った呪いの傷は、いつか骨まで届き身を亡ぼすと言われました。
呪いというと大げさに聞こえますが、なにもタタリ神によるものでも、昔の話ではなくても、
心の中ではこの呪いにかけられたように生きている今の時代の人も多いのではないでしょうか。
自分の生まれたあるいは育った環境や、うまくいかないことや、病気やそのほか辛いできごと。
どうしてなんだ、と怒り悲しみ、絶望したくなるようなことが起こることもあります。
その苦しみにとらわれすぎて、誰かを恨み憎しんで傷つけたり、なにかしらの思い込みを作りあげたりして、自らをほろぼしてしまうことは心の呪いと言えないでしょうか。
この心の呪いを解くにはどうしたらいいのでしょうか?
アシタカのたどった道のように、なぜこの傷を負うことになったのか、この傷にどんな意味があるのかと問うことで
新しい生きる道がみつかるのかもしれないなあと私は思います。
もちろん、人間ですから泣いたり怒ったり、沈み込んだりすることも必要です。
感情はそのままに大切にしながら、「なぜこれが今起こっているのか?」と考え自分を理解することは、生きるのをラクにすることのように思えるのです。
少なくとも、誰かやなにか、運命を憎しみ、恨み、戦い続けるよりは、
生産的に自分の人生を生きている気がします。
サンとエボシが一対一で戦うシーンでも、アシタカは「これ以上憎しみに身をゆだねるな」と言って止めます。
タタリ神の姿を見、憎しみの呪いによる傷を得たアシタカだから
同じ種類のものを二人の中に見て、そう言えたのでしょう。
憎しみや苦しみ、自分や誰かを責めることなどに身をゆだね続けず(ゆだねる時期が一時あるのとは別です)
自ら赴いて自分を苦しめ傷つけるものが何なのか、どこからきて、自分の人生においてどういう意味を持ってそこにあらわれているんだろうか。
そう問うことでより意味深く自分らしい生を生きられるんじゃないかなあと、思うのです。
曇りなきまなこで見定める、というのはこういうことなのかもしれません。
今回は、しっかり録画しました。また繰り返しみたい作品です。
टिप्पणियां