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執筆者の写真Aarteeni

猫の小次朗が天寿をまっとうしました

お正月のお休み中、


16年一緒に暮らした最愛の猫の小次朗が


この世を旅立ちました。 





ここ2年ほど、


ゆっくり階段をおりるように


ひとつひとつ身体が不自由になっていくことを受け止め続けた


小次朗だったので



もう苦しい不自由な肉体をはなれて


自由になってよかったね、と


どこかで安堵する気持ちもあります。




ちょうどお正月やすみで


夫もわたしもずっと家にいられた時に看取れたのは


幸いだったとも思います。




でも、



わたしにとっては宇宙一かわいくすばらしい存在なので、


やはり


「目の前にいない」という事実は


とても悲しく、つらく、



何をしてても涙が出たり、


いつ激しい悲しみが襲うのか予測できない時間を過ごしていました。





小さい猫用おむつの買い置きを見て泣き、


ペースト状のごはんをもう買わなくてもいいことに泣き、


室温を気にせず外出したり


早起きして薬を飲ませなくていいことに泣き、



思い出してつらくなるものを片付けても


そこがぽかんと空いて不在を痛感し、


また泣けてくる・・・ 




今はそんな悲しみや不在のさみしさやつらさを


夫と


「そうだよね~」「わかる~」と


ありのままわかちあっています


(同じ重みで分かち合える家族がいるのは、本当にありがたいことですね) 






この深い悲しみやさみしさは、


それ相応の深い愛があったからこそ、なんですよね。



絶対に失いたくないほど大事な存在がいなくなれば、


喪失の痛みを感じてあたりまえ。 




だからこそ、


涙もとめないし、



かなしい、


さみしい、


どうしてもういないの、と


嗚咽して、


情けなくしゃくりあげるのを



「人として自然なことだからいいんだ」と


自分にゆるしています。 




それは、


わたしが


セラピーのお仕事をさせてもらっているからこそ


あえて「全許可」していることかもしれません。



自分の悲しみで心がいっぱいだったら、


誰かのお話をきちんと聴けないし


自分自身の抑圧は


誰かの抑圧・コントロールにもつながりかねない



きちんと聴ける心身を保つ意味でも


信頼できる人の手も沢山借りながら、


セッション以外の時にできるだけ


気持ちを感じきっています。




そして


自分の心がその先にどうなって、


何を感じるのか、を


客観的に観察している最中でもあります。





気持ちを感じきると昇華する・癒される、


というのは


インナーチャイルドセラピーや前世療法、


亡くなった方と対話する悲嘆療法で


わたしもよくお伝えする「心の仕組み」の一つの視点ですが、



小次朗の最期を通してわたしもまた


そのことを実体験する出来事がありました。






いよいよターミナルケア、という数日間、


苦しむ小次朗を目の前にして


もうなにも打つ手がない悲しさや不安でいっぱいになるものの 



人(猫)前では気丈にふるまって


トイレやベッドでこっそり泣いていたんです。




でもとうとう耐えきれずに 


小次朗の前で号泣した時間がありました。 




意識混濁の小次朗の小さい背中にすがっておいおいと泣き、



こんなに泣いてしまってごめんね、


どうしてもどうしてもお別れがつらい、


大好きで感謝してるからこそつらい、


でも


今は泣いてしまってるけど


心配をかけたくもない、


引き留めて苦しめたいわけじゃない、


旅立ちのタイミングは尊重したいんだよ、



ということを


本心の言葉で語りかけました。




心優しい猫や犬は、


飼い主が悲しんでいると死ぬに死ねない、と


聞いたことがあり


なんとなく小次朗もそう思ってがんばってくれているのかな、


それでこんなに苦しんでいるのかな、と


思っていたんです。 




だからこそ


それまで目の前で泣くのを我慢していたのですが、


もうそんな表面的なことを取り繕ってもしょうがない局面にいたから


正直にわたしのヘタレ具合を


ありのまま表現したんですよね。





そうしたら。





しっかりしなきゃと気丈に振舞っていた時には


心で思っていても絶対に口にできなかった



「苦しかったらもうがんばらないで、いってもいいからね」



というお別れの言葉を


自然に、心からそう思って


伝えることができました。 




わたしが自分の痛みや弱さや気持ちを許して


ありのまま感じきってそれを表現したからこそ


心が安堵し、


次の段階にすすめて、


目の前の命のありのままをも心から尊重でき


それを伝えることができた。 



そんな体験でした。




ほんとうにほんとうに、


「ありのままでいいんだよ」


ということを


小次朗は身をもって教えてくれたんですよね。




そのあとは、


大好きとありがとうを今まで通り心を込めて


たくさん伝え続けました。





その数時間後



意識をいったん取り戻し、



お水とちゅーる、


大好きなあんこをふた口ほどなめて 


私たち夫婦をほっとさせた後、



その日の未明に旅立っていきました。



(こうやって旅立つ前に飼い主に元気な姿を見せてくれるの、


エンジェルタイムというらしいですね!


猫や犬は本当に優しいなあ…) 





ほんとうにいろんなことを教えてくれた、


かわいくやさしい自慢の猫さんでした。 








小次朗がいなかったら、


この愛おしさや


この痛みや悲しみも、


いてくれることの大きな幸せも、


そのほか命に対するいろんな感情も


味わうことがなかっただろうし



それを夫とありのまま分かち合えるありがたさも、


支えてくれた人たちのあたたかさにも触れなかったかもしれない


そう思うと


わたしの人生に小次朗がいてくれて幸運だったと思います。 





亡くなる3日ほど前、



よく晴れたお正月の、


柔らかい午後の陽ざしを見ながら


リビングで小次朗を間に挟んで夫と昼寝していた時、


そんなことを胸いっぱいに実感して


幸せの涙がこみあげたことを


ずっと忘れないでいようと思います。  





まだまだ涙が出ることはあると思いますが


悲しみは悲しみのまま味わい


自分を大事にし続けることで


だんだんと痛みは癒えていくのだろうと思います。




愛おしさや感謝や、


会いたいさみしい気持ちは


きっとずっと持ち続けるにしても。




わたしがわたし自身の痛みを


ありのままに受け止め続けることで、


誰かの痛みも同じように


ありのまま受け止め、


その方の力を信じられるわたしでいられる糧に


この経験がなりますように、と


願いながらセッションを続ける現在です。




対面セッションは、通常通り行っております。






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