『コンビニ人間』。誰でも「○○人間」なのかもしれない。
『コンビニ人間』村田沙耶香著。
芥川賞作品というとなんとなく難解で硬質な感じなのかと思いきや
まったくそんなことはなく、あっさり軽く愉快に読めました。
これを読んで感じたことは、
誰でも本当は
主人公の古倉さんがコンビニ人間であるように
何かの「○○人間」なんだろうなあということ。
古倉さんほど突き抜けていないにしても
古倉さんはすごく特別な人というわけではなく
その人がしっくりくる仕事や生き方や場所がみんなあるのだろうなあということです。
でも、古倉さんを取り巻く人たちのように
「それはおかしい」
「ちゃんとしたほうがいい」
「治って」
などと言葉にして、
あるいはみえない空気にして
マジョリティー側であることを要求するものはどの時代でも存在し
それに対して気持ちが揺らいで
「こうしないといけないんじゃないか」
「こう生きないと周りにとやかく言われて面倒」
なんて思ったりして
なんとなくしっくりこない生き方を選んでしまうことも
ままありますね。
その結果
たとえば
本来ものすごく主婦業が好きであった人が
「みんな働いてるから私も働かねば」と頑張りすぎたり
またその逆のタイプの人が
「家族の面倒は絶対に私がみないと」と懸命になって
辛くなってしまうこともあります。
古倉さんがコンビニを辞めて違う会社に就職しようとした時
まるで魂が抜けた人のようになっていた時のように。
どちらの生き方が良い悪いというレベルの話では全然ありません。
それだけ、その人自身の持つ
そもそもの「○○人間」の素質(魂的なもの)って力強いものだという話。
その人らしく人生を生きなければ
生命力も落ちてしまうほど
ともすれば
命さえ落としてしまいかねないケースもあるほど
強力なものだと思うんです。
古倉さんは最後に自分の生き方を再選択します。
白羽さんに手をひっぱられたとき
「この手はコンビニで働くためにあるのだ」(←原文忘れましたが確かこんな感じ)
と自分の胸にしっかり引き戻したシーンがありましたが
この場面が私は一番好きです。
古倉さんが長年コンビニに向き合い培ってきた経験と愛情があるからこそ
きちんと自分に手を戻せたのかもしれません。
ムカつく登場人物の白羽さんのように
いろんなものから隠れ、毒づき、
近しい人を動かそうとするだけで自分は動かないと
本当は何かの○○人間であったとしても(たぶん白羽さんだってそういうのあるはず)
それが見当たらなくなってしまうのかもしれません。
そしてますますどうしていいかわからなくなり、
ますます毒づくしかなくなる苦しい生き方…
古倉さんはどちらかというと世間一般とは違う、マイノリティー側の人かもしれません。
でも、私は古倉さんは自分の幸せを自分でつかんだ
幸せな人間だと私は感じます。
私もどちらかというとマイノリティー側の人間。
でも、自分の幸せがわかるようになってきただけ
幸せだと感じています。
もちろん
マジョリティーや世間一般を否定しているわけではなく
世間一般的でいう幸せな生き方が、イコール自分の幸せだという人ももちろんいます。
それは、
自分が感じる幸せ
プラス
大勢の他の人たちと同じ経験や気持ちを共有できる幸せもあって
大変幸せなことだろうなあと思います。
どちらの生き方でも、自分が心からイキイキできたり楽しかったり、幸せだったらいいのです。
今年一年、どんな年にしようか。
具体的な目標はまだ未定ですが
私はさらに、自分なりの「○○人間」ぶりをもっと追及していきたいなあ
なんて思いました。