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執筆者の写真Aarteeni

『バケモノの子』と『ゲド戦記』と心の闇



先日、細田守監督の『バケモノの子』をテレビでやっていましたね。


大切な人との絆とか、異世界の存在とかいろんな見方があると思いますが、「心の闇」に注目しながら見ていました。




以下ネタばれありです。




主人公の久太は、父と別れ母も亡くなり、親戚とも相いれないような状況で、街に飛び出します。


そこでさまよっていた際に味わった気持ち、


やりきれなさや怒りや悲しさが、


まるで亡霊のような人型と、その心臓のあたりにブラックホールのような穴として描かれていたのが印象的でした。





この「心の闇」の対応の仕方が、この映画では


「現実の大切な人の存在を思い浮かべてとどまる」というやり方で表現されていましたね。


少女にもらった手首に巻いた紐や、熊哲の心の剣が


闇に飲まれるのを思いとどまらせたり、生きていくための指針になったりしていくのでしょう。





この「心の闇」は人間はだれでも持っている


でも


周りの人と関係を作ることでそれにのまれないように生きていくことができるよという


メッセージなのかなと受け取りました。





心の闇や影との闘いについてのファンタジーは、たくさんありますよね。





私がすぐに思いつくのは、やはり「ゲド戦記」(ル・グウィン著)です。


アニメ映画ではなく、小説のほうですね。


(ジブリ映画は第3部を映画化したものですが、ここでは第1部の「影との闘い」のほうの話です。)


ゲド戦記では、最終的に心の影とどう戦ったというと、向かい合い名前を呼び、抱きしめるという方法でした。





その名前とは、まさに自分の名前「ゲド」。


心の影は恐ろしい外部のなにものかではなくて、自分自身であったのですね。





「影」や「闇」が自分自身であるということは


逃げたり封じ込めたり


それを外の対象に見つけて(投影して)攻撃したりしても消えないということです。





久太が胸に作ったブラックホールのような、凍り付いた人型のようなもの


それが何かを頭と感情両方で理解して


自分自身として受け入れることで小さくしていくことができる


と『ゲド戦記』では表現しています。





セラピーで心の影や闇を扱うときも、こういった感じです。


闇や影は、外の敵ではなく自分自身なので


向かい合い理解し感情のエネルギーを解放したりして


統合していくのが一番いいように、今のところ私は思います。


そんなふうに私も自分自身に向かい合ってきて実感しています。





ただ、向かい合うそのタイミングは人それぞれです。


子どもの頃にできた闇や影は、大人になってから自覚したり


心的に安全な場所にきてから出てくることも多いので


30代から40代くらいで向かい合うようになる方も多いのです。


そして、本人が生きづらさを自覚したり


周りの人を大事にしたいのにできないなどの悩みが生じたりして


心から必要と思わない限りは、向かい合うことはないのかもしれません。





闇に向き合うも、向き合わないも、ひとそれぞれです。


ただ、向かい合うことで広がる心や


その心からさらに深まる人生は


本当にかけがえのないものだと思います。



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