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  • 執筆者の写真Aarteeni

「これがわたし」


「This is me」、心震える楽曲ですよね~。


『グレイテスト・ショーマン』の劇中


レティと仲間たちが


この曲を歌いダンスするシーンは圧巻で泣けました。





そのビハインドストーリーがこちら。





映画製作前の、


俳優さん達のワークショップの映像だそうです。





いくら実力があるプロでも、


初めてのことは怖いですよね。


震えながら、


それでも勇気を振り絞って進んで前に出て歌う


レティ役のキアラさん。





「勇気もある、傷もある、これが私」





…リアルに「This is me!」だよ!





とまた涙して、リピートして見てます・・・









傷があると、前に進むの怖くなる時ってありますよね。





とても怖かった


無力感でいっぱいだった


悲しくてしかたなかった


すごく恥ずかしい思いをした・・・





その衝撃が強烈であれば


「わたし=傷」


くらいに同化してしまうこともあるでしょう。


そして前に進むことができなくなることもあると思います。





「わたし」がひとつの球体であると仮定すると


「傷」の色で側面全体を覆いつくされているような感じ。





本当は、


自分がそう見て、


そうジャッジしているのであって


多面的な球体の一部であるだけなんですけど。


ちょうどこの画の多面体の


たくさんある△の一つだけのようなものです。






その傷はとても強烈で、


痛すぎて


大きく思えるかもしれません。


実際、大きいのかもしれません。





でも側面はその△だけじゃなくて


他の、素晴らしい△もいっぱいありますよね。





どちらも「わたし」という球体の側面です。


「わたし=傷」では本当はないわけです。








「わたし」の球体の側面中には


好みの△もあれば


あんまり好きじゃない△もあるかもしれない。


傷のように痛くて触りたくないものも。





でも、好きじゃないからと言って


「それ、わたしのじゃない」と見ないでいても


直面せざるを得ない事が起こるケースもあります。


(心理学でいう「投影」で、嫌な人があらわれるとか。


または傷を癒すために何らかの出来事が起こるなど…)








逆にそれが出てきたときは


傷の△も「自分の一部だと認めて」


ということなんでしょうね。








認めることで


抵抗のエネルギーが変わって小さくなるかもしれないし


見方が変わって違う形に感じるかもしれない。


違うことに意識が向かって


相対的に気にならなくなるかもしれない。





無理やりほじくり返さなくてもいいですが


出てきたら


「あるねー」


「それもわたしだねー」と


認めたり、引き受けるといいのかもしれません。





(私自身もつい最近みつけましたよ・・・


びっくりするくらい好みでない△!


インナーチャイルドといっていいかもしれません。


生きてる限り発見し続けるかもしれませんね。


やれやれですね。)








そして


傷や好みじゃない△だけじゃなく、


素晴らしい△も同様に。





好きなことや


積み重ねてきたことや


もっとこうしたいという欲求、


望みや展望、役割や得意分野





そもそもの、


本来の存在としての球体自体の内側の力も。





「あるねー」「わたしだねー」


と認め、


解放したり欲求を叶えることで


より自分らしいエネルギーが増す気がします。





 


好きじゃない面にも


傷の面にも


素晴らしい面にも


画像の球体全体に、分け隔てなく


光を当てていく、光を取り戻すイメージ。








曲中にあるような


「glorious」って


こういう感じなのかなーと私は思いました。





球体全体が輝く感じ。





それが、周りを照らすことにもつながるんでしょうね。

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