Aarteeni

2022年3月2日

お金にまつわる罪悪感から、世界への信頼をとりもどした話

最終更新: 2022年12月30日

お金や パートナーシップ、

対人関係…

こんな目の前のことに悩むときって、

これらそのものが「問題」ってわけではないことが

わりと多くあります。

「いやいや、 実際お金について悩んでます」

「パートナーとなんかイマイチで

困ってるのは事実です」

って 思うかもしれません。

たしかにそうです、

苦しいのは事実。

現象としてはそうなんですけど

その現象を創っている「根元」のところに 、

・本来とズレたセルフイメージ

・本当にわかってほしかったこと 

・抑圧してしまった未完了の気持ち 

・男って…世界って…等という

もう不要な思いこみや心の癖 等など 

そんな

「もっと幸せになるためのお宝」が

埋まっている場合があるんですよね。

それを発掘しちゃって

「根元」をバージョンアップしたほうが

もっと本来の自分らしく自由にいられるかもね、

という話です。

たとえば、 

最近発掘したわたしのお宝。

わたし、

先日 ある方から

「愛のこもったお金」をいただいて

ありがたく受け取ったつもりだったんですけど 

そのお金を使う時、

ちらっと

「あ、これ使うの申し訳ないな」

という思いが横切ったんです。 

お金を使うのが申し訳ない。

というか

「受け取って使うのが」申し訳ない。

そして、

いたたまれない、嫌な感じがする。  

へっ???? 

なんでだっけ???

この感じ、なんだっけ??  

と感じなおしてみたら 

「母は苦労してるのに 

わたしにお金を使ってもらっちゃって申し訳ない」

という根深い子どもの頃の罪悪感

また、

たどりつきましたね~。 

何度か向き合ってきたつもりのこの気持ち!! 

これがあったために

「申し訳なくてお金を受け取り切れてない」(罪悪感)

「受け取り切れてないからスムーズに出すことへも抵抗が起きる」

(出した分だけお金が減るのでは、という不安) 

という心の癖に つながっていたんですね~。

セルフインナーチャイルドセラピー案件です。

ちょっと話はズレますが

癒しって ここまでいったら完了、

みたいなことは基本ないと思っています。 

人は死ぬまで成長していきたい生き物なので、

次々と脱皮するように

今の自分に不要になった「思考の枠組み」を

脱いでいきたい願望があるんですよね。 

それを脱ぐ時に、

感情のエネルギーの抵抗があるなら

それをちゃんと見てあげて癒したほうが

ラクに脱げることが多い。

だから、

癒せていないところがあるのはダメとか未熟とか、

そういう意味付けをしなくてよくて

ただ、

「成長したいんだね、いいね」

で いいとわたしは考えています。 

さて。 

セルフインナーチャイルドセラピーの中で

わたしは子どものわたしになり

イメージの中の若い母と対話をしながら 

自分の罪悪感や無価値観を

「こう思ってた」と

ありのまま声に出して話します。 

わたしにお金を使ってもらって申し訳ない(罪悪感) 

なぜならお母さんは苦労をしている 

なんなら犠牲(!)を受け取っている感じがする(思いこみ) 

それを受け取るほどわたしは価値がない(無価値感) 

なぜならわたしは家族を助けられてないから

(役に立たない自分という間違ったセルフイメージ)

はい。

こんな感じでイメージの中の母と

対話して行きました。 

対話の中で腑に落ちていくのは

罪悪感を持つ必要なんかなかったということ(子どもなので当たり前)

母が犠牲になっていると

わたしが感じているのは確かだけど

本当は自分も犠牲になっていると感じていて

母を助けたいという気持ちもあったけれど

母に助けてほしかったのは自分でもあった

という

悲しみや甘えたい気持ちが未完了 だった

ということです。   

「本当は助けてほしい(愛がほしい)、

でもわたしは母を助けられない無価値な人間なので

(罪悪感と無価値感)

そんなこと言えない(=受け取れない)」

というわけです。

セルフヒプノなので、

このあたりで 

「あ、無価値とか妄想だし

もう十分助けてもらってきてるし受け取ってきたな」

という大人の認識が復活し

「なんだ、

受け取る価値なんかずっと前からあって

受け取れない、と ひとりでジタバタしてただけだったわ」 

おつかれさま(完) 

となりました。 

(セルフなので雑です)

ちなみに、

「母が犠牲になっている」と

わたしが感じていたのは 

母の人生への信頼感の不足なんですよね。

この信頼感が不足していると、

心の境界線があいまいになってしまいます。

母は母で、 わたしはわたしで、

お互いに人生を切り拓く力も

自分を幸せにする力もある人間。

そこの信頼をもう一度認識しなおすことで 

大変ではあったけれど

「なんだかかわいそうな犠牲者」 ではないよね

ということを

何度目かにわたって再認識しました。

「もっともっと信頼していい、わたしも他人も」

というのが

今回わたしが

バージョンアップさせた「根元」の部分です。 

過去のわたしの家族のように

なにか困難なことがあっても 

そこから何かを見出していったり、

人生切り拓いていったり、

もっと幸せになる力がわたしたちにはあるし

仮に

今回のわたしのように

「(お金や愛を)受け取りきれない」

なんてジタバタしてても、

本当はずっと受け取ってきていたし、 

助けられてきたし 

そういう愛の循環ができる力も

わたしたちにはあるし

誰もかわいそうでもない。 

罪悪感がもしあったのなら 

申し訳ない、と受け取りを拒否するのではなく 

ありがとう、と感謝して次にまわしていけば 

全然いい

だって、

そもそも愛を受け取ってほしい、と

手渡されたものなんだから。

ただまわせばいい。

そんなシンプルなことが、

感情の抵抗(罪悪感や無価値感)で

スムーズにいかなかったりするんですよね~ 

ひさしぶりに子どもの頃の自分と向き合い 

そんなことを感じました。

今は、前よりも 

お金を使う時の感謝の気持ちが300%位アップして、

受け取る時も同じように

感謝マシマシで受け取れています。

あ、ありがたい~~~~~!!!

こうして自分に関心をがっつり向けることになったのも

「自分からの愛をも受け取りたい」という

心の欲求だったんでしょうね。 

だいぶ枯渇してたみたい!

申し訳ない、って

自分にいわないとイカン案件でした。